二〇〇八年台北中山堂に捧ぐ
台北市立国楽団
痕跡(こんせき)、禅意(ぜんい)、跳ねる線、騰龍(とうりゅう)
台北市の中山堂は、まもなく八十歳を迎えます。 その佇まいは優雅にして風格を湛え、 建築家の傑作として、 1930年代のモダニズム思想を率いた存在でもありました。
彼女は歴史の傍観者ではなく、まさにその場にいた証人でした。 第二次世界大戦の台湾降伏式典、 中華民国とアメリカの共同防衛条約の調印、 そして中華民国正副総統の就任式―― これらの歴史的瞬間が、この堂宇で執り行われました。
華麗にして夢幻、 各国の元首が集い、 香る衣擦れと杯の音が交わる中、 笑顔と友情が交差する、国宴の舞台ともなりました。
また芸術の聖域としても名高く、 絵画展、舞踏会、音楽会、コンサートなど、 数多の芸術がここに共鳴し、 まばゆい光を放ちました。
荘厳でありながらも市民に開かれ、 古典の美と現代の感覚が共存するその姿。 中山堂の魅力は、語り尽くせぬ深淵を湛えています。
多面体の歴史建築──尽きぬ物語、時の沈黙に刻まれて
日本統治時代、総督府の地として築かれ、 官民が交差した空間として歩み始めた中山堂。 その後、国府の立法院、国民大会、 そして洗練された芸術の殿堂として、 時代の要請に応じて姿を変え、 いまや音楽と珈琲の香りに満ちる国家二級古跡として、 なお舞台に立ち続けています。
それは単なる建築ではなく―― 歴史の共鳴者、沈黙の語り部。 尽きることなき宝をその身に宿し、 人々が耳を澄まし、心で掘り起こすのを静かに待っているのです。
清朝統治の官衙──時の為政者が治めし場所
中山堂の前世と今生は、百二十年以上前の清朝時代にまでさかのぼります。 当時、朝廷は台北の発展を重視し、台北府を設け、 高くそびえる赤煉瓦の城壁と官庁を築きました。 その広大な城壁の内側は官の世界―― まさに台北城の心臓とも呼べる中枢であり、 城壁の外には庶民の生活が広がっていました。
一八八九年、布政司衙門が完成。 これは朝廷の二品高官――布政使の執務の場として設けられ、 清朝における台湾統治の最高機関となったのです。
帝国の治政が始まった場所──日本統治時代の総督府跡
一八九五年、日本は下関条約に基づき台湾を獲得した。 この運命に抗うべく、台湾の人々は「台湾民主国」を樹て、 自らを守るために立ち上がった。 その臨時大統領府が置かれたのが、清朝の布政司衙門であった。
六月七日、日本軍は台北城に進攻し、 同じ布政司衙門にて「始政式」を挙行、 台湾の接収を世界に宣言した。 その瞬間より、布政司衙門は日本統治の中枢、 総督府へと姿を変える。
以降二十余年、 ここは日本植民政府の最高権力機構として、 多くの命令と沈黙が交錯した場所となった。 そして一九一九年、新たな総督府が完成し、 ようやくその重き役割を手放したのである。
モダニズムの新たなる胎動──台北公会所
一九三二年、昭和天皇・裕仁の即位を祝うため、 日本政府は清朝時代の布政司衙門を取り壊し、 その跡地に「台北公会堂」を建立しました。 当時の台湾における超大型建築であり、 日本国内の東京・大阪・名古屋に並ぶ「四大公会堂」のひとつに数えられました。
工期は四年、延べ九万四千五百人の労働者が携わりました。 建築面積は一二三七坪、総坪数三一八五。 最先端の鉄筋コンクリート構造を用い、 四階建ての鋼骨建築は、耐震・耐火・耐風の力を宿し、 七十年以上の歳月を経ても、今なお凛として立ち続けています。
設計を担ったのは、東京帝国大学建築科出身の井手薫。 台湾総督府の建設にも関わり、 当時は総督府営繕課長、「台湾建築会」会長としても活躍していました。 深い学識に裏打ちされたその建築は、 常に時代の一歩先を行き、独自の美学を備えていました。 台湾に長く滞在した彼は、風土と美意識に精通し、 四方に開かれた回廊と滑らかな動線設計により、 風が通い、光が満ちる建築を創出しました。
外観は幾何学的で簡潔、 モダニズムの精神を明確に表現しています。 建築様式は、明治以降のギリシャ・ローマ的語法を和らげ、 イスラムのアーチと尖塔窓、 中国の「方勝」形換気口、琉璃瓦、斗拱、 閩南式の陶瓦、ギリシャ式の三角破風を融合させた 独特の「混合様式」を生み出しました。
その外壁は、台湾の「北投窯」で焼かれた土肌を用い、 軍国主義が高まり、戦争の気配が濃くなる中で、 目立つ赤煉瓦は避けられ、 静けさを帯びた淡い緑色―― 後に「国防色」と呼ばれる色で覆われました。 それは、嵐を前にしてなお静かに祈る建築でした。
市民の大いなる集いの殿堂──台北中山堂
元の設計は、東側の「集会堂」と西側の「宴会場」、 ふたつの核を持つ壮麗な構造でした。 集会堂は二層分の高さを誇り、 下層には1,301席、上層には755席―― 合計2,056人を収容する空間が広がっていました。 宴会場は三層構成で、 大宴会場、一般集会室、娯楽室、理髪室、貴賓室、厨房などを内包していました。 建物の正面には広々とした広場が計画され、 市民のための野外空間となり、 また二階のバルコニーは、群衆へ語りかける場として機能しました。
1936年、「台北公会堂」が落成。 当初は官主導のイベントが中心でしたが、 市民は徐々にこの場所の新たな意味を見出していきます。 実は落成の前年にはすでに 「始政四十周年台湾博覧会」の第一展覧館本会場として姿を現し、 多くの来場者を魅了していました。
その後も市民集会や芸術文化の舞台として数々の催しが行われ、 台北市の中心にして、モダンな建築美を誇るその姿から、 自然と「公会堂」は最良の舞台となっていったのです。
そして、1945年――日本の敗戦。 台湾は再び中華民国へと帰属します。 その歴史的転換点において、 二階の「大宴会場」は「中国戦区台湾省受降式」の会場に選ばれ、 運命を刻む儀式が荘厳に行われました。 その後、「台北公会堂」は正式に「中山堂」と改称され、 台北市政府の管理下に置かれました。
「大宴会場」は「光復廳」へ、 「普通集会場」は「堡壘廳」、 「大集会堂」は「中正廳」と改名され、 その名を変えながらも―― 常に時代の中心舞台として、 政治、儀礼、芸術、娯楽、民生のあらゆる姿を宿し、 新たな時代を生きる場所となったのです。
国宴の雅と芸術の光──交わる外交と文化の舞台
彼女――中山堂は、政治の鼓動が響く場となりました。 1949年、国民政府が台湾へと遷り、 ここは十数年にわたり、 国民大会、立法院、台北市参議会の議場として用いられました。
ここでは、中華民国の第二~五代の正副総統就任式、 また中米共同防衛条約の調印式も執り行われました。
そして、外交の舞台としても輝きを放ちます。 元アメリカ大統領ニクソン、 韓国の李承晩、 ベトナムのゴ・ディン・ジエム、 フィリピンのガルシア、 イランのパーレビ国王―― 幾多の元首たちがここで国宴のもてなしを受けました。
また、この空間には数多くの「初めて」が刻まれています。 台湾初の天文観測所が設けられ、 第一回台湾省美術展、 台北市初の集団結婚式、 蔡瑞月の初舞台、 楊三郎の初歌謡発表会、 第一回愛国くじ抽選会、 第一回漫画展、 現代美術の「五月画会」の初展覧会、 李梅樹の初個展、 ボストン交響楽団とウィーン少年合唱団の台湾初公演、 ノーベル文学賞作家ソルジェニーツィンの初講演、 そして、楊弦の呼びかけで始まり、 1970年代の民歌運動へとつながる最初の演奏会―― そのすべてが、中山堂で幕を開けたのです。
さらに、中国青年反共救国団の創立大会もここで開催されました。
一般市民にとっての中山堂は、 もっと親しみやすい日常の顔をもっていました。 当時の台北では珍しい西洋レストランがあり、 真っ白な制服を着た給仕が、 ロシア風スープやオックステールスープを運ぶ光景は、 まるで夢のようでした。
京劇、演劇、映画といった庶民の娯楽も数多く上演され、 その広場や小さな公園は、散歩や語らいの場として愛されました。 そして「光復廳」は、 多くの新郎新婦にとって、 人生の門出を祝うための最高の舞台となったのです。
歴史は眠らず、今を輝く──第二級古跡に息づく生命
1992年、56歳を迎えた中山堂は、内政部によって第二級古跡に指定されました。 1999年には、台北市民政局から新設された文化局へと移管され、 大規模な修復工事が施されました。
修復を終えた中正廳、光復廳、そして広場は、 市民が自由に申請して利用できる空間として開放され、 台北市立国楽団が常駐するようになりました。
こうして中山堂は、台北市の芸術文化活動の中心として、 新たな命を得て生まれ変わったのです。
「台北映画祭」、「台北芸術祭」、「出版フェスティバル」、 「文化月」、「伝統芸術季」、「広場コンサート」など、 年の初めから年の終わりまで、 心を潤す祝祭が絶え間なく続きました。
また、歴史の痕跡をとどめるこの古跡は、 記憶をたどる場所としても人々を迎え入れるようになりました。
最初は長年勤めた職員がガイド役を兼ね、 その後は、研修を受けた案内ボランティアが育成され、 中山堂の物語を静かに語り伝え、 訪れる人々を、その記憶の奥へと優しく導いていきました。
台北市立国楽団
多彩な演奏技巧と高い芸術的完成度で名高い 「台北市立国楽団」は、1979年に設立されました。 2001年12月、音響の名声高く歴史ある古跡「中山堂」へと拠点を移し、 専用の音楽ホールとリハーサル室を得て、 音楽の魂に宿る場所をようやく手に入れたのです。
楽季ごとに約10万人の聴衆に応え、 年間50回を超える定期演奏会、教育演奏会、 そして多様な公演を開催。 なかでも毎年4月から6月にかけて開催される「台北伝統芸術季」は、 春の風物詩として市民に愛されています。
同時に、国楽団は台北市の文化大使として、 国際舞台での活躍も目覚ましく、 日本、アメリカ、カナダ、フィリピン、マレーシア、 オーストラリア、シンガポール、イギリス、ドイツ、フランス、 オーストリア、スイス、オランダ、ベルギー、チェコ、 中国、香港、マカオへとその音を届けてきました。
2007年より、作曲家・鍾耀光が団長に、 国際的指揮者・邵恩が音楽総監督に就任し、 北市国は未曾有の芸術発展の時代を迎えました。 革新的なプログラム企画は、各界から高く評価されています。
2008年と2009年には、 フランスのサクソフォン奏者クロード・ドゥランジュ、 フルート奏者シャロン・ベザリ、 作曲家・インスタレーションアーティストのジェームズ・ジルドン、 フランスのサクソフォン四重奏団「クワチュール・ディアステマ」、 打楽器の女王イヴリン・グレニー、 トロンボーン奏者クリスチャン・リンドベルイ、 インドのサロード奏者アムジャッド・アリ・カーン、 トゥバ共和国の喉歌グループ「フーン・フール・トゥ」らと共演。
それは音による祈り、 文化を越えた響きの交差点でした。
団長・芸術監督──鍾耀光(チョン・ヤオグァン)
1956年、香港に生まれた鍾耀光(チョン・ヤオグァン)は、 幼い頃から独学で作曲を学び、 その音楽的な感性は東洋と西洋のあいだを旅する魂のように育まれてきました。
アメリカのフィラデルフィア演芸学院、 ニューヨーク市立大学で打楽器を専攻。 Nicholas D’Amico、Morris Lang に師事し、 Leigh Howard Stevens、阿部圭子に師いてマリンバを学びました。
1980年から1986年まで、 香港フィルハーモニー管弦楽団の打楽器副首席を務め、 1986年、自作《兵車行》がアメリカ打楽器協会作曲コンクールで優勝。 これを契機にニューヨーク市立大学大学院に進学し、 Robert Starer、David Olan に作曲を学びました。
博士論文《ヘンツェ「雪国の五つの情景」の理論と演奏分析》は 同大学の最優秀論文賞「バリー・ブルック賞」を受賞。 1991年に打楽器演奏博士号、1995年には作曲博士号を取得しました。
帰国後は、国家級文化機関「国家戯劇院・音楽庁」(両庁院)の企画組長、 国立台湾芸術大学音楽学科教授として、 台湾の音楽文化と人材育成に大きな足跡を残しています。
彼の作品は、国楽・西洋音楽・民族音楽の境界を軽やかに越え、 現代に息づく詩として世界各地で演奏されてきました。 シャロン・ベザリのための《フルート協奏曲》と《胡旋舞》、 林昭亮とSejongソリスト団による《客家四季》初演、 エヴァ・ファンパスがギリシャで初演したギター独奏曲、 香港中楽団作曲コンクール優勝作《永恆之城》。 吹奏楽作品《節慶》は世界吹奏楽大会で注目を集め、 ウィーンの名門出版社クリメント社より出版され、 今日ではクラシック吹奏楽の定番レパートリーとなっています。
《大地之舞》と《草螟弄雞公》は、 世界的チェリスト、ヨーヨー・マによって演奏され、 台湾SONYよりリリースされたアルバム《超魅力馬友友》に収録されました。
今後の注目作には、 クリスチャン・リンドベルイのためのトロンボーン協奏曲、 クロード・ドゥランジュのためのサクソフォン協奏曲、 2009年台北デフリンピックのためにイヴリン・グレニーが初演予定の打楽器協奏曲などがあります。
その音楽は、祈りであり、物語であり、 時代と文化をつなぐ架け橋です。
1. 痕跡(こんせき)
この楽章は、中山堂の歴史に刻まれた「痕跡」を静かにたどるものである。
その響きは、時間の中に埋もれた記憶や精神の足音を呼び起こし、
特に編鐘の音色が鳴り響くと、
聴く者はいつの間にか時空の回廊に導かれ、
遠く深い過去へと心を運ばれていく。
楽曲は、追憶の静けさの中に始まり、
やがて歓びと祝福の調べへと変化しながら、
中山堂という空間に刻まれた台湾の発展の痕跡を
まるで呼吸するように、音楽として映し出してゆく。
建物は静かに語りかける。
「わたしの中に、時代が生きている」と。
2. 禅意(ぜんい)
この楽章は、
人が自然とひとつに溶け合う瞬間――
その静謐な美しさを映し出す音の風景である。
作曲は点描的なオーケストレーションによって構成され、
弦楽器のフラジオレット(倍音)が繊細に響き、
心を解きほぐすような、
深くやわらかな静けさを空間に漂わせる。
旋律はゆるやかに、そして優美に流れ、
まるで天地のあいだに浮かぶひとつの呼吸のよう。
それは主張する音ではなく、
ただ静かに、聴く者の魂を中心へと還らせる。
無言のうたが、そこにある。
3. 跳ねる線
この楽章は、中山堂の建築に秘められた美を音で描き出す――
壁面に描かれた跳ねるような線模様に呼応し、
旋律は軽やかに、
リズムは生き生きとした変化に富み、
まるで石の上を光が跳ねていくような印象を与える。
それは、かたちそのものを奏でるだけでなく、
その背後にある“動きたがる精神”――
建築に込められた歓びや意図、
創造の息吹を音楽に映し出している。
静のなかにある動、
構造のなかにある生命、
それがここに、躍る。
4. 騰龍(とうりゅう)
この楽章は、台湾における現代国楽の発展を象徴する。
中山堂を拠点とする台北市立国楽団は、
まるで時代を貫く一頭の龍――
都市の空を優雅に翔ける存在として描かれる。
その音は、台北の都市景観と共鳴し合い、
伝統と革新、規律と創造、
文化の深層と都市の日常をひとつに結びつける。
音楽は空を舞い、街と語らい、
台北という都市そのものが、
音を媒介にして呼吸を始める――
物語と魂が、音にのって生きていく。