2023 深き愛より、生涯の捧げもの 佘山聖母修道院
一生奉獻 深き愛より、生涯の捧げもの 佘山聖母修道院
ご存じでしょうか。
声なきままに、
静かに、しかし確かに、
この世界を動かしている力があることを。
それは今から二千年以上前――
イエス・キリストの時代から始まります。
ある人々は、自らの意思で結婚や世俗の安楽を手放し、
神への聖なる誓いを立て、
一生を神に捧げる道を選びました。
神父、修道士、修道女――
その姿は今も、信仰の中に息づいています。
人々がよく目にするのは、
宣教活動に勤しむ修道女かもしれません。
けれど、もうひとつの在り方があります。
それが「隠修女」です。
彼女たちは静かなる修道院で暮らし、
日々の祈りと労働のなかで、
自らの霊魂を澄ませていきます。
その清らかな在り方は、
効率と即時性が求められる現代とは対照的です。
けれど――
だからこそ。
このような時代にあって、
隠修女たちの存在は、
かえって一層の輝きを放ちます。
それは喧騒を貫く光、
忘れかけていた美しさを映し出す鏡であり、
私たちの心に本当に必要なものを思い出させてくれる
啓示そのものなのです。
三つの聖なる誓い:清貧・貞潔・従順
台湾・桃園市中壢区、中央西路二段のまっすぐな通り。
にぎやかな夜市のすぐ隣に、
ひっそりとした深い灰色の扉があります。
そこを行き交う人々の多くは、
きっとこの場所のことを知らない。
まさかこの扉の奥に――
世界から集まった隠修女たちが住まい、
生涯を神に、そして人々に捧げているとは思わないでしょう。
ここは佘山聖母修道院。
彼女たちは、
修道院の外に出ることなく一生を過ごすと誓い、
静寂と祈りのうちに生きています。
その生涯は、三つの聖なる誓いによって支えられています。
- 清貧:財産も所有も捨て去り、ただ神を求めて生きる。
- 貞潔:体と感情を神に捧げ、独身の道を貫く。
- 従順:意志を神と修道会に委ね、
キリストの「清い花嫁」として生きる。
このような生き方は、
世間の目には「隠れる」ように見えるかもしれません。
しかし、実際には、
より深く、より純粋な宣教のかたちなのです。
彼女たちの「使徒職」は――祈り。
修道院長のチャ修女はこう語ります。
「私たちは、もっと多くの人が神を知るように祈っています。神はその祈りを聞いて、人々の心に働きかけてくださいます。
それが、私たちが宣教のためにできる最も大きな貢献です。」
佘山聖母修道院 簡史
台湾・中壢にある佘山聖母修道院は、
カトリック修道会「マタラの主と聖母の僕(SSVM)」に属する隠修共同体です。
この修道会は、1988年3月19日にアルゼンチンで創立され、
活動的な宣教と沈黙の祈りという二つの柱をもって、
現在は五大陸に広がる国際的な修道会として、多様な地で福音を証ししています。
1996年3月、初めての四人のSSVM修道女が台湾に到着。
台中教区の沙鹿に入り、中国語を学びながら福音宣教を開始しました。
その後、台中・大里、彰化、草屯、中興新村へと働きが広がり、
やがて新竹教区の中壢、竹東、大園などに派遣されました。
そして2018年、新竹教区からの希望に応え、
それまで中壢の聖アンソニー教会で活動していた修道女たちは
イエス聖心堂へと移り、聖アンソニー教会は隠修院へと生まれ変わりました。
それが、今日の佘山聖母修道院です。
現在、ここにはチリ、アメリカ、香港、アルゼンチン、マレーシアから来た
十人の隠修女が暮らし、
世界、そしてすべての華人のために祈る日々を送っています。
「佘山」という名前には深い意味があります。
修道院長のチャ修女は語ります。
「私たちの創立者は、すべての隠修院に特別な意向を与えました。私たちは、全世界の中国人の回心と信仰のために祈る使命を担っています。
佘山の聖母――それは中国の守護者。
すべての華人がイエスを知り、聖母マリアを愛するように、
私たちは日々、沈黙の中で祈りを捧げています。」
目には見えなくても、
この修道院から放たれる祈りの光は、
世界中の心に、そっと届いています。
補償(補贖)とは何か?
隠修女の生活には、二つの大きな柱があります。
それは祈りと**補償(補贖)**です。
祈りは魂を高め、
補償は魂を清め、神のもとへと立ち返らせる道です。
補償とは何か?
それは、罪を悔いる心から生まれる苦行の行為です。
それは、ただの自己懲罰ではなく、
愛から自発的に選ばれる贖いの道。
自らの罪、そして世界の傷のために、
神の前で赦しを祈り、償おうとする姿勢です。
補償には二つの側面があります。
- 内なる補償:罪に対する痛悔と、再び罪を犯さぬという決意。
- 外なる補償:身体をもって苦行を実践すること。以下の三つに分類されます。
- 断食:適切な食事量からさらに減らす。
- 快適さの制限:生活上の安楽を控える。節制が大きいほど、霊的価値も高まる。
- 肉体の苦行:粗衣を着る、病苦を受け入れる、重労働を担うなど。
イエス・キリストが十字架上で自らを贖いの犠牲とされたように、
私たちもその苦しみに参与し、
愛と祈りによる補償、
使命と責任による補償、
病や困難を捧げる受難の補償をもって応えます。
隠修女の生涯そのものが補償です。
一生を修道院の中に留め、
空間、時間、身体、魂のすべてを神に捧げるのです。
ある修道女はこう語ります。
「身体は、時に頑固なロバのようです。快適さばかりを与えていると、霊魂は真理を見失います。
だから、身体に節制を教えることで、
より高貴なものを愛する力を育てるのです。」
佘山聖母修道院では、補償は生活のあらゆるところにあります。
食、睡眠、日々の苦労――
すべてが身体の訓練と、魂の自由のためにある。
補償の霊的効果は三つ:
- 過去の罪の償い
- 霊魂の主導性の回復
- 特別な恵みの祈願(悔い改めの深化、イエスの受難への共感、困難の突破)
そしてこのすべてが、
**「すべての華人の回心のために」**捧げられています。
隠修生活について――世に隠れ、世のために生きる
カトリック教会における奉献生活には、
宣教的な生き方と隠修的な生き方の二つがあります。
宣教者たちは人々のもとへ出向き、教え、助け、仕えます。
一方で、隠修修道女たちは、世間を離れて神と向き合い、
祈りと犠牲の中で、世界のために生きています。
チャ修女はこう語ります。
「隠修生活とは、神にすべてを委ねる生き方です。沈黙と禁域のなかで、祈りと補償を捧げ、
全人類のために神に仕えるのです。」
隠修生活の主な要素:
- 祈りの生活:一日七回の聖務日課、聖体礼拝、ロザリオ、聖書朗読と黙想。
- 静寂と独居:内なる神の声を聞くために、心を鎮める。
- 禁域(エンクロージャー):世を捨て、神と深く親しく交わるための選択。
- 斗室(セル):修道女の個室は、祈りと労働、霊的交わりのための聖域。
- 学び:聖書と霊的書物を通して、「道・真理・命」であるキリストを求める。
- 労働:ナザレでのキリストのように、日常を神と共に聖化する。
- 共同生活:神と修道女たちの間の愛の交わりを生きる。
- 沈黙の宣教:隠修生活そのものが宣教であり、祈りと補償こそが教会の心臓である。
中には、「どうして若く才能ある女性がこのような生き方を?」と疑問を持つ人もいます。
答えはひとつ。**召命(聖なる呼びかけ)**です。
それは心の奥底に響く、神からの静かな招き。
それは選択の自由があり、神は決して強制されません。
けれど、応えたとき、それは生涯にわたる深い喜びとなります。
彼女たちは世から離れているようでいて、
実は世界のために生きているのです。
この世を愛しているからこそ、
神への愛をもってそれを包んでいるのです。
世界で最も美しいこと
隠修修道女とは、
創造主である神からの招きを受け入れた魂。
その人生はすべて、祈りのために捧げられたものです。
祈りは絶えることなく続き、
補償は自分のためだけではなく、
すべての人のための贖いとなります。
彼女はこう語ります。
「神を深く愛すればするほど、この世界のすべて――人も、万物も――を
もっと愛せるようになります。
たとえ世間の人々が私たちの存在を知らなくても、
私たちはここで静かに、
この世界のために生きて、祈っているのです。」
愛とは、ただの感情ではない。
本当の愛とは「与えること」。
他者の善と美を心から願うこと。
すべての人のために祈り、補償を捧げることは、
隠修女にとって最も大切な使命の一つです。
修道生活33年の歩みを振り返りながら、チャ修女はほほえみます。
「喜びも、苦しみも、十字架もありました。けれど、こう言えます。
主は、ずっとそばにいてくださいました。」
修道女は、この世の美と善を探し求める存在。
人間ですから、個性も弱さもあります。
けれど共同生活のなかで、赦し合い、謙遜を学び、
そこから真の平安と喜びが生まれるのです。
「私にとって、この世で最も美しいことは――
修道女として生きること、
そして、
自分のすべてを神に捧げることです。」
祈り・黙想・黙観――神へ近づく魂の三つの階段
「祈りとは、私たちの心の内で、神と語り合うことです。」
チャ修女はそう語ります。
それは遠い存在への形式的な儀式ではなく、
創造主なる神との親しい友情の関係。
神は私たちを創られた方であり、
父として私たちを愛しておられるお方です。
命、魂、思考、望み……
私たちのすべては神からの贈り物。
「もし神が私たちを一秒でも忘れたら、私たちは消えてしまうでしょう。」
だからこそ、私たちの存在そのものが、
一瞬一瞬、神に属しているのです。
神との関係は、
子どもと父のように、
親友との語らいのように、
生徒が先生に学ぶように、
病人が医師に信頼を寄せるように、
心を預けられる関係です。
「神との対話は、人生の中で最も大切なことです。」
神は目に見えるかたちでは現れないかもしれません。
けれど、心の中で「理解」や「導き」として語りかけてくださるのです。
苦しみの中にも善を見出す力を与えてくださる。
たとえば、誰かを赦す心が芽生えるとき、それは神が語っておられるのです。
祈りの三つの道:
- 言葉の祈り:言葉で神に思いを伝える、基本的で親しい祈りのかたち。
- 黙想(メディタチオ):理性を用いて福音や日々の出来事を深く考え、それを神に語る。
- 黙観(コンテンプレイション):言葉も思考も超えた祈り。
まるで親友同士が言葉なくして通じ合うように、
ただ神の御前に静かに在ることそのものが祈りとなる。
礼拝し、愛し、共にある……それだけで十分なのです。
修道院の一日――時のなかで永遠と出会う
毎朝、午前4時50分――
世界がまだ眠るうちに、修道女たちは静かに起き上がります。
午前5時30分、聖体礼拝。
一時間、沈黙のうちに御聖体を仰ぎ見る。
言葉は少なく、まなざしと心を捧げる祈りの時間。
午前6時30分、ミサと聖体降福。
キリストと共に、今日という一日を神に捧げる。
その後、修道女たちは一日の中で七つの時課――
朝課・三時課・六時課・九時課・晩課・終課・読課――を唱えます。
詩編が時間の流れに沿って静かに響き渡る。
毎日、ロザリオも祈られます。
聖母マリアと共に祈りの数珠を手に、
愛と信頼の言葉を繰り返す。
祈りの合間には、掃除・料理・刺繍・編み物などの日々の労働。
彼女たちは手作りで祭壇布や聖体布などの祭具を縫製します。
「神からいただいた多くの恵みに感謝して、心を込めて、美しいものを神に捧げたいのです。」
普段は会話を控えています。
それは**「沈黙もまた補償であり、祈りである」**から。
しかし、日々の中には**共に過ごす時間(共融の時)**もあります。
昼食と夕食はその時間で、
最初に10〜15分ほど本が朗読され、
その後は言葉を交わし、歌い、笑い合います。
土曜の夜、日曜、祭日には、より長い共融の時間があり、
主の日である日曜は特別な喜びの日として祝われます。
こうして一日が過ぎていく――
祈りと労働、沈黙と共融、
そのすべてが神との親しい交わりを織り上げる、 美しい霊的な織物となるのです。
特別な食卓
《相遇(そうぐう)》という音楽劇の撮影をきっかけに、
台湾土狗のカメラマン・慶隆さんが
佘山聖母隠修院に足を踏み入れる機会を得ました。
沈黙に包まれた世界の中で、
祈りに照らされた修道女たちの姿をレンズに収め、
彼女たちとの深く静かな友情が芽生えました。
まもなくして、ある前代未聞の晩餐会が開かれました。
ある土曜日の夜――
修道院の二つの隣り合った部屋にて、
鉄柵を隔てて、修道女と友人たちが共に食卓を囲んだのです。
そこには騒がしさも、贅沢さもありません。
しかし、柵越しに交わされた笑顔、
同じ皿に感じた温もりは、
言葉以上の交わりを生み出しました。
きっとその夜、
天主も微笑んでおられたでしょう。
隔てがあるからこそ、
愛はより深く、透きとおるように流れたのです。
もしあなたが、
佘山聖母隠修院の近くを通ることがあれば、
修道女たちに祈りをお願いしてみてください。
彼女たちは日々、
静かなる祈りと犠牲によって、世界を支えています。
また隣接する霊修センターでは、
カトリック信者だけでなく、誰もが静かなひとときを過ごすことができます。
修道女たちと共に祈り、黙想を学び、
心の深いところと向き合う時間を持つことができます。
物資の寄付も歓迎されます。
あなたのささやかな思いやりが、
彼女たちの日々の奉献への感謝となるでしょう。
この静かな場所の内と外が、 いつも優しさで結ばれますように。
西洋最古の聖なる音楽――グレゴリオ聖歌
林珀姬教授は、国立台北芸術大学・伝統音楽学系の教授。
西洋音楽の悠久の歴史において、
最も古く、今もなお聴くことのできる旋律。
それは、和声も、拍子も、調性も持たない一つの声――
**グレゴリオ聖歌(Gregorian Chant)**です。
それはクラシックでもロマン派でもなく、
修道院の静寂と祈りの時間に属する音楽。
男修道士たちが、教会の石造りの聖堂で
ラテン語の詩篇や「頌歌(Cantacile)」を歌い継いできました。
歌は、信仰を深めるための手段であり、
言葉を心に刻むための聖なる方法でした。
旋律は単一で、あたかも魂が神に向かって歩む巡礼のよう。
そしてこの音楽は、**8つのモード(調式)**を基盤とし、
現代音楽のような明確な調やリズムはありません。
やがて、年長の修道士たちは、
若き修道者たちに旋律を教えるために、
「紐碼(Neuma)」と呼ばれる記号を用いるようになります。
これこそが、現在の五線譜の原型です。
未完成の記譜法でありながら、
この音楽は信仰と祈りの力によって口承され、保存され、継承されてきたのです。
千年の時を超えてなお、 この祈りの声は、 沈黙のなかで、 私たちの魂にそっと灯をともすのです。
東洋と西洋のモード音楽――魂が語る最初の言葉
遥かなる時を超えて、
音楽は魂と神を結ぶ祈りの道であった。
グレゴリオ聖歌――中世ヨーロッパの修道士たちが、
ラテン語で一音一音を大切に歌い上げたこの歌は、
中国・唐宋時代の詩詞の吟唱と、
不思議な共通点を持っている。
どちらもモード(調式)音楽であり、
拍子や長さに縛られず、
言葉の強弱、呼吸、そして感情の流れに沿って響く。
教会の石造りの中で、修道士が祈りを込めて歌う時、
その声は意味を越え、
清らかな響きとなって心を洗う。
一方、唐や宋の時代には、
詩を読むのではなく、詠じるという文化があった。
各地の方言や腔調によって詩は異なる旋律を持ち、
「開合の口」や「語の重さ」が音の美を決める。
現代でも、泉州腔の南管は、唐宋の発音を最もよく残すと言われ、
この音で唐詩を歌うと、より深く詩情が伝わるのだ。
こうして見ると、
東西の古典音楽は、異なりながらも、共に「魂の言葉」を探し求めていた。
表現ではなく、敬虔。 構造ではなく、心。 音楽とは、祈りそのものだったのだ。
佘山(シャシャン)聖母隠修院
住所︰台湾 桃園市中壢区中央西路二段124号
📞 電話︰+886-3-492-3212
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