2012 生命の宮牌(せいめいのみやふだ)荘進才(そう・しんさい)と彼の北管(ペイグワン)人生
漢陽北管劇団
荘進才(そう・しんさい)の芸術人生 ——宜蘭(ぎらん)の風土と水の文化に溶け合いながら演じられる北管の姿
すべての大地には、それぞれの文化の記憶が宿っています。
それは庶民の暮らしから芽吹き、幾世代にもわたり育まれてきた、音のかたち、身ぶり、色彩、楽器たちの記憶です。
台湾の音楽について語るとき、先住民族の旋律と並んで、
渡台した漢人を主体とする社会において最も古い音楽が「南管(なんかん)」と「北管(ほっかん)」です。
北管とは、京劇における中原音韻・中州韻とも呼ばれる「官話」によって演じられる様々な漢族の音楽様式を指し、閩南語や客家語系とは異なる音楽伝統です。
西皮(せいひ)や梆子(ぼうし)を基調に、崑曲(こんきょく)や地域の小劇形式を融合しながら発展してきました。
明末清初の時代、北管は漢人移民とともに台湾へ伝来し、南方音楽を中心とした「南管」と並び、台湾の二大伝統音楽体系として根づきました。
この二つの音楽は、200~300年にわたり、台湾の音楽と戯曲に深く影響を与えてきたのです。
北管が含む範囲は非常に広く、
乱彈戲(らんたんぎ)、正音戲(せいいんぎ)、福路戲(ふくろぎ)、西皮戲(せいひぎ)、子弟戲(していぎ)、外江戲(がいこうぎ)、大戲(たいぎ)、老戲(ろうぎ)、四平戲(しへいぎ)、鑼鼓陣(らこじん)、八音(はちおん)などがその体系に属します。
また、台湾独自の地方劇である歌仔戯(げざいぎ)や布袋戯(ほていぎ)にも大きな影響を及ぼし、
今日に至るまで台湾芸能の魂を鳴らし続けています。
「八脚(はちきゃく)の椅子、すべて座り尽くした」
音楽と芸術は、ある土地に根づくと、その風土や暮らしと交わり、
そこにしか咲かない美しい「違い」を持った花となる──。
台湾・宜蘭で生まれ育った北管芸術の巨匠 荘進才(そう・しんさい) の人生は、まさにこの土地の水と風に育まれた「北管のかたち」そのものでした。
1935年(昭和10年)、荘氏は宜蘭県冬山郷竹篙厝に生まれました。父は「冬瓜山班」や「扑尻川底(ポウカオチュアンティ)」の舞台俳優。
当時の台湾は日本の統治下、皇民化政策が推し進められ、劇団も刀を手にし、日本語で皇民劇を演じるよう求められていました。
ようやく戦後の1945年になって、荘氏は本格的に北管を学ぶ機会を得ます。
父から教わった「秦瓊倒銅旗(しんけい・どうとうき)」は、いまでも彼が誇りに思う代表作のひとつです。
1946年、11歳で鼓を学び始めた荘氏は、以後「八脚の椅子をすべて座り尽くした」ような、舞台人生を歩みはじめます。
最初は歌仔戯(げざいぎ)の太鼓を学び、当時まだ幼かった**楊麗花(よう・れいか)**と同じ劇団で演じていました(後に台湾歌仔戯の大御所となる人物です)。
14歳で前場(舞台演技)、打楽器、弦楽器、吹奏などを習得し、宜蘭の名門「羅東福蘭社」に入団。150年以上の歴史を持つこの団体で、荘氏は有名な乱彈芸人「刻花土仔(こくか・どあ)」こと**黄旺土(こう・おうど)**に師事します。
二人は実の親子のように深い絆で結ばれ、黄氏は荘氏にとって生涯最も大きな影響を与えた師となりました。
荘氏は語ります:
「刻花土仔老師からは最も多くの譜を教わりました。数え切れないほどの法門(ほうもん)を授けられました。文字も上手で、彼の花彫り(木彫)は本当に専門家でした。」
いつも心は、北管(ほっかん)と乱弾(らんたん)とともに
半世紀以上前、北管の芸人たちはどうやって芸を学んでいたのか。
「私たちが鼓を学んだ頃、六角鼓の中心はとても小さくてね、それを正確に打てるよう練習した。
ハエが飛んで通ったら、それを一発で仕留められるほどの精度まで──そうなるまで“練る”んだ。打つも、吹くも、弾くも、すべては練習。練ってこそ、美しくなる。私は歩くときでさえ譜を唱えていた。足取りにも拍がある。バン、リャオ、バン、リャオ──だから私の拍はいつも正確なんだ。」
1949年から1956年、入隊するまでの7年間、羅東福蘭社で北管を学んだ。
兄弟弟子と一日中音を合わせ、戯れ、響き合ったその日々は、荘進才にとってかけがえのない青春だった。
22歳で徴兵され、大陳島から撤退してきた広東部隊に所属する。そこで偶然に軍楽団に入り、広東音楽を習得。幼少期からの北管に、新たな音色が加わった。
除隊後、名門乱弾劇団「東福陞」に加入。
1960年、結婚。
2年後、台湾初のテレビ局が開局し、伝統演劇は時代の波に押されていった。
生活のため、さまざまな仕事を渡り歩いた。
「薬売りもしたし、空心レンガも運んだ。」
後に銅鉱山で働き、家族全員で働いていたが、最愛の妹を事故で亡くす。
「背負っていたのは、私だ……彼女は私の背で、亡くなった。」
それ以来、母は鉱山に戻ることを許さなかった。
彼は屋台で氷を売り、芝居も続けた。羅東の路地を氷車で巡りながらの暮らしが、十数年。
「心が繋がっていたのは、いつだって北管と乱弾だった。」
1974年、友人とともに「東龍歌劇団」を設立。
1988年、「漢陽歌劇団」(のち「漢陽北管劇団」)を設立。
1990年までの十余年は、まだ“劇団の黄金期”と呼べた。
だが1991年を境に、舞台の灯は徐々に消えていった。
北管戯曲(ほっかんげききょく)、尽きぬ風采を演じて
現在、「漢陽北管劇団(かんようほっかんげきだん)」は、宜蘭(ぎらん)地域において最も代表的な民間の伝統劇団であり、台湾で唯一の北管専門の演劇集団でもあります。また、現在も「子弟戯(していぎ)」を上演できる希少な劇団のひとつであり、1989年(民国78年)には栄えある「民族芸術薪伝賞(しんでんしょう)」を受賞しました。
この20余年、伝統演劇の衰退という現実と向き合いながら、
「漢陽北管劇団」は文化の灯を絶やすまいと、静かに強く歩み続けています。
日常の民間上演では「昼は北管、夜は歌仔戯(げざいぎ)」という独自の演出形態を守り、
また芸術祭や公式イベントなどでは、北管の古典演目を精緻に再演し、
その豊かで力強い表現を後世へと伝えています。
さらには、新たな世代の育成にも尽力し、
北管芸術の薪火が、未来へと静かに受け継がれてゆくことを願い続けています。
今年で八十三歳を迎える荘進才(そう・しんさい)老師は、
北管と歌仔戯の両世界を自在に往還する稀有な全能芸師。
その人生すべてを北管音楽と伝統戯曲に捧げ、
国家文芸賞、民族芸術薪伝賞、人間国宝、宜蘭文化賞、模範父親賞など、数えきれぬ栄誉を受けてきました。
彼が北管と結ばれてきた道のり、
そして「漢陽北管劇団」の歩みは、
戦後台湾における北管芸術の変遷と発展を映す、ひとつの縮図でもあります。
晴れの日も、嵐の夜も、喜びの時も、哀しみの時も、
荘老師の人生には、いつも戯曲の旋律が寄り添っていました。
その音に耳を澄ませ、ただひたすらに歩み続けたのです。
常におおらかに人と接し、笑顔を絶やさぬその姿は、
家族にとっても、弟子にとっても、老芸人たちにとっても、
永遠に帰ることのできる「温かな港」でした。
まるで**生命宮牌(せいめいきゅうはい)**のように、
やわらかな響きとともに、豊かで味わい深い「北管人生」を打ち鳴らし続けてきたのです。
過ぎし日々を振り返りながら、荘進才老師は語ります:
「失われた年月に、心から感謝しています。
あの時代があったからこそ、家族を養い、子孫を育て、
そして私の音楽が豊かになったのです。」
『生命宮牌(せいめいきゅうはい)』は、国宝級芸師への深い敬意を込めた舞台。 北管の巨匠 荘進才老師 に加え、1988年に台湾地地方戯曲コンクール「最優秀旦角賞」を受賞した李阿質老師、 1998年に「台湾省政府文化特別貢献賞」を受賞した李美娘老師、 そして長年にわたり北管乱弾の世界に身を捧げてきた林増華老師など、 名匠たちが一堂に会し、舞台に命を吹き込みます。
さらに、「漢陽北管劇団」の中堅・若手世代の俳優たちがともに出演し、
世代を越えた共演と師弟の誓いが舞台上で織り成されます。
また、本公演には音楽作曲家であり、荘老師の入門弟子でもある
**陳明章(ちん・めいしょう)**氏も特別出演。
師と弟子、老と若──
ひとつの舞台に響き合い、
北管戯曲の果てしない風采と、いのちへの讃歌を奏でます。