日時:2011年7月場所:台北カギュ派 自生遍在仏学センター
前書き(まえがき)
私たちは、ミラレパ尊者が零度の山上で禅定に入り、 わずかな糧を食し、破れた衣をまとうその姿を目にします。 そのような苦行は、現代人にはとても及ばない境地です。
しかし、尊者はこう祈られました: 「未来のすべての有情が修行を志すならば、 我が苦行の力によって、その道に障りなく、迷わぬように。」
その生涯のひとつひとつの場面が、 私たちの心と身に深く勇気と力を与えてくれます。 ——第十七世カルマパ 法王の尊き開示より
この法と芸術の交差点が、 参加される皆さまの心に響く感動と気づきをもたらすよう願っています。 混乱し、不安定で、騒がしいこの世において、 正念を提起し、正しい行いを保ち、 苦しみを苦しみとして終わらせ、 解脱と歓喜の種を蒔くことができますように。
感謝を捧げます: 導師 ア・ジン・リンポチェ、 維那師 チウペ・ラマ、 天界の声をもつチベット女性歌手 ゲシャ・チェジ、 通訳 釈 妙融 法師、 題字 奚松(シ・ソン)老師。
そして、芸術監督・振付師の呉素君(ウー・スーチュン)老師の率いる芸術チーム: 演出 郭蘅祈(クオ・ホンチー)、照明 曹安徽(ツァオ・アンフイ)、林怡潔(リン・イーチエ)、 舞台美術 黎仕棋(リー・シーチー)、衣裳デザイン 鄭惠中(チェン・フェイチュン)、 舞台監督 林立群(リン・リーチュン)、 演奏家 吳宗憲(ウー・ツォンシェン)、王小尹(ワン・シャオイン)、賴奕杉(ライ・イーシャン)、 柯元富(クー・ユェンフー)、羅振瑋(ルオ・チェンウェイ)、陳彥廷(チェン・イエンティン)、張潔心(チャン・ジエシン)、 舞踊家 詹舒涵(ジャン・シューハン)、程心怡(チェン・シンイー)。
この野外劇場にて、尊者の苦行を偲びましょう。 天を蓋とし、地を坐として、 身と心を真理に安住させ、 自他の苦しみの因が、根より滅しますように。
吉祥と善が、遍く満ちますように。
——噶舉自生遍在仏学センター 常住 スナン・アニ 祈願をこめて
ミラレパ尊者(みられぱ そんじゃ)
ミラレパ尊者は十一世紀初頭に生まれ、チベット仏教史上最も偉大な成就者の一人として知られている。 その聖なる名は宗派を超えて敬愛され、すべての伝承において高く讃えられている。
若き日の尊者は、深い苦難と業の重さに覆われた人生を歩んでいたが、仏法と出会うことにより、魂の奥底からの根本的な変容が始まった。
師である大訳師マルパの教えに従い、俗世の一切の執着を断ち、雪山や岩窟に独り籠り、白い布一枚をまとって苦行に勤しむ。 それゆえ、彼は「綿衣の行者(ツェン・ミラレパ)」と称される。
妄念そのものが法身であることを見抜き、万法が縁起により空であることを悟り、無上の智慧と自在を得た。
ミラレパ尊者は、生涯にわたり寺院を建てず、僧団を組織せず、ただ自己の修行と慈悲の行動によって、無数の衆生を導いてきた。 その姿こそが法であり、三乗円融と自他の利益を実現する真の道を示している。
彼の悟りの境地から自然に流れ出た『十万の歌』は、金剛の歌として千年にわたり修行者たちの心を潤し、霊性の糧として今も輝き続けている。
導師:第三世 ア・ジン・リンポチェ
安增リンポチェは、初代ジャンゴン・コンツル・ロドゥロ・タイエの心子の一人の化身として認定された尊き行者である。
第三世として誕生した安増リンポチェは、幼少期より数々の非凡なる示現と徳行をあらわし、十六歳のとき、自身の深い願力と祈請により、カギュ派の禅定の第一人者であるボカル・リンポチェの導きのもと、彌勒ボカル寺にて「三年三ヶ月の伝統閉関修行」に入る。
その閉関中、リンポチェは転生祖古として享受できるあらゆる特権を捨て、一般の僧侶と同じようにあらゆる勤労を担いながら、師のもとで謙虚に禅定に励み、その修証は上師の印可を得るに至った。
ボカル・リンポチェおよび堪千ドルジェ・リンポチェより、口伝と教法のすべてを受け、ひとつひとつ真摯に修持した。 その師への信は、ミラレパ尊者がマルパ大師に捧げたように、まさに金剛のごとく揺るぎなく、リンポチェはその謙虚さ、証量、慈悲の徳をもって、完全に恩師の足跡を踏みしめている。
安増リンポチェは、現代において出会うことが極めて稀な若き禅師である。 その禅定、その智慧、その慈心と悲願は、まさに私たちが今、触れるべき仏の導きである。
彼が慎ましく隠してきたその証量と徳行は、すでに第十七世カルマパ法王の眼に深く映じられ、2010年末には、法王よりインド・ブッダガヤにおける「マハーカラ大法会」の主導役として任命された。
現在、リンポチェはネパール・バンイェ寺に常住し、弘法と衆生済度の道を静かに歩み続けている。
「何をしているの?」
「リンポチェが“山の神”と対話しているんだよ。」
「…対話?」
「そう。山の神、そして有情・無情すべての存在たちに伝えているんだ。
ここで演じることでご迷惑をかけることを詫び、どうか無事に、円満に、すべてが進みますように…と祈っているんだよ。」
《道の歌 一》師を念ずる歌
上師の恩徳を想うがゆえに、渇ききった我が心に一時の潤いが差す。 父のようなる師マーラパよ、 この貧しき子の嘆きの歌をどうかお聴きください。
東方の宝の谷、紅き崖のほとり、 白き雲はたゆたう空に流れ、 奔る象のごとき山々、 峻峰の頂に獅子は誇り高く立つ。
その峰の上、仏の御寺あり、 アムリカの玉座の右側に、 師マーラパは今も座しておられますか?
もし今なお師がそこにおられるなら、 その慈しき御顔を仰ぎ見れたら、なんと喜ばしきことか! 信は浅くとも礼拝したく、 誠は微かでも謁見を願う。 思えば思うほど、マーラパの父を慕い、 修すれば修すほど、上師の尊影が胸に浮かぶ。
その想い、生母ダメマーを超えてなお深し。 師の連れ合い、今もその寺におられるだろうか? もし今なお彼女が健やかであれば、 その慈愛の面差しを見られたら、何と歓びに満ちることだろう。
道は遠くとも、我は向かう。 山道が険しくとも、師に謁することを願う。 思えば思うほど、我が心はマーラパの父へと還る。
《道の歌 二》何が真に益となるかの歌
師マルパに額ずきて、 弟子よ、老父ミラレパの最終の歌を聞け。 最後の教え、心して耳を傾けよ。
恩師の慈悲により、 瑜伽行者ミラレパは、 この生の修行をすべて終えたり。 もし汝ら我が言を修せば、 十方仏、ことごとく歓喜せん。
我が歓喜、仏も歓喜、 すべての行は成就する。 だが、我が教えを破る者、 自他ともに益なきなり、 その行いを見て、我は嘆く。
もし師が清浄なる伝承を持たずば、 灌頂を求めて何の益があるか? 心と法が一致せぬならば、 経軌を持つこと何の意味があるか?
世俗の欲を捨てぬままに、 修観することに何の値があるか? 三業(身・口・意)正法に合わずば、 読誦も儀軌も空しき声。
鋭き舌を制せずに、 忍辱を修すとは名ばかり。 親しみと憎しみを手放さずば、 供養の意義も色褪せる。
利己の心を断たぬならば、 布施もまた虚飾に過ぎぬ。 六道の衆生を父母と見ぬならば、 どんな立派な寺も意味はない。
心に清らかな見地が起こらずば、 仏塔はただの石にすぎぬ。 四時の瑜伽を修せずば、 仏像を作る意味もない。
深き祈りが湧かねば、 供物もまた風に消えん。 上師の口訣が心に染み入らねば、 死を迎えても徒労に終わる。
仏を見て信が生ぜぬならば、 その像もただの飾りにすぎぬ。 出離の悲しみが起こらねば、 俗世を捨てることも空虚な演技。
己より人を愛せぬままに、 慈悲を語るは虚言なり。 煩悩の根を断たねば、 供養も意味を持たぬ。
上師の教えに従わずば、 弟子がどれほどいても空し。 無益なる行はただ損を招く、 ゆえに、すべてを捨て去れ!
我がミラレパ、すでにすべてを終えり。 この世の煩わしきこと、もう無用なり。 さらなる行い、必要なし。 今ここに、ただ「休む」ことを知れ。
《道の歌 三》四つの譬えと五つの修心の要訣
虚空のごとく果てしなく、内も外も無き広がり、 そのように、汝の心を観じよ── 方角も中心もなく、縁もない。
空に浮かぶ太陽と月のごとく、 闇を破り、遍く照らすが如し、 そのように、汝の心を観じよ── 光は清らかにして、眩きまでに明るし。
目の前にそびえる山嶺のごとく、 動かず、揺るがず、静かに座す、 そのように、汝の心を観じよ── 山の如く、不動にして堅固なるを。
果てなき海のように、深く広く、底知れぬもの、 そのように、汝の心を観じよ── 深く、深く、終わりもなく、辺もなし。
かくのごとく、心を観ずるべし。 分別を離れ、思惟を超えて──
《道の歌 四》仏を見る歌|ミラレパ尊者作
大恩ある上師に礼拝を捧げ、 この歌により法の光が増さんことを願う。 諸天の聖衆が歓喜しつつ集い、 我、ミラレパの妙なる法語を今ここに聴け。
十方虚空は仏の顕現で満ちている、 されど俗世の眼には映らず。 五通を具さぬ者、どうして見抜けよう? されど我にとっては、掌上の宝の如く明らかに見える。
これはすべて、上師の慈悲と口訣の加持によるもの。 希有なる兆し、今ここに顕る—— 五色の虹が空を飾り、 天より花が舞い降り、 香りは馥郁、天楽が鳴り響く。
法を聴く衆生の心は、 浄き信と歓喜に満たされる。 これこそ、上師の大悲の加持のあらわれなり。
仏や菩薩を親しく見たいと思うなら、 遠くを求めず、ただ我が歌に耳を傾けよ。
人がなぜ迷いに沈むか? 前世の罪業が縛り、 今生においても悪を好み、 善きことを避け、老いてなお目覚めず。 かくて異熟の果報を受ける。
懺悔の道を問うならば—— 善を想い、常に心を澄ませよ。 恥を知り、真の利益を思え。
この世の者たちは、悪を知りながらもなお行い、 羞恥も利益も忘れ去る。 己の往く先も知らずに、 他者を導こうとは笑止なり。
もし苦を嫌うならば、 他者に苦を与えてはならぬ。
上師と仏陀の御前において、 過去の罪を悔い、 もはや二度と行わぬと誓うならば、 罪は速やかに清められん。
罪多き者はしばしば聡明を誇るが、 心は散乱し、定まりを欠く。 法を念じぬ心こそ、罪未だ尽きぬ証なり。
ゆえに、懺悔を怠らず、 資糧を積み、精進せよ。 その修行により、 仏菩薩をまみえるのみならず、 最勝の仏、己の内なる如来をも見るであろう。
自らの心が法身仏であると知るとき、 輪廻も涅槃も幻のごとし、 全ては劇の如く一目に明らかとなる。 もはや修すべきものは無く、 ただ悟りのみが在る。
『道の歌・第五』— 祈願と廻向
尊きマーラパ師に敬礼を。
五つの無間の罪を犯したれども、 速やかなる懺悔により、すべては清められん。
我が積み重ねし善業と功徳により、 三世の諸仏の聖なる願力により、 一切衆生の罪業、悉く浄められんことを。
汝が大いなる苦悩すべてを、 我が身に引き受け、清らかならしめん。 師の恩は父母の如く、 その師を害するは、実に悲しむべきことなり。 かかる業が異熟の果をもたらすならば、 我が代わりに受けて、汝の罪を清めん。
すべての時、すべての処において、 悪しき業の伴侶と縁を断たんことを。 生を重ね、時を超え、 常に善き導師と出会わんことを。
悪業によって財を得ず、 また他を苦しめ悩ませることなく、 願わくば、法界のあらゆる有情が、 慈しみと菩提心を発さんことを。
カギュ派・自生・遍在・仏教センター
カギュ派・自生・遍在・仏教センター
カギュ自生遍在仏学中心は、至尊なる大宝法王と、尊き導師たち——蔣貢仁波切、カル・リンポチェ、ポカル・リンポチェの利他の精神を根本に据え、すべての衆生の解脱と大楽を使命とします。
その活動は、内なる観照への静かな推進力となることを願い、
2009年の「音と空の不二・音楽禅」、
2010年の「色と空の不二・舞踏禅」、
2011年の「ミラレパとの邂逅」において、
芸術と仏法を一体として表現しました。
これらすべては、慈悲深き上師方が誓願に生き、衆生を利益せんとする行願の顕れです。
仏法の清涼が、すべての時において衆生の灼熱なる苦悩を和らげんことを祈ります。
「風は夜にしのび入り、
物を潤して音もなく」
——それこそが、自生し遍在するこの存在の意義と価値なのです。
〈カギュ自生遍在仏教センター〉の詳細はこちら:
公式サイト:http://www.niguma.org.tw/
〈ミラレパとの邂逅〉のご購入はこちら——
カギュ自生遍在仏学中心 常住者:ソナム・アニ(Ani Sonam)
インド・ダージリンの篤信仏教の家庭に生まれ、祖父母と父は皆、慈悲と布施を実践する人々であり、ダージリンにて「貧者の友の会」を設立し、困窮者への定期的な救済を行っていました。 法師は幼少より英国式教育を受け、ダージリンの名門英国学校を卒業。その後、尊き『ミラレパ伝』に深く感銘を受け、出家受戒を発願し、一生を仏法と利他の道に捧げる決意を固めました。
1984年、第一世カル・リンポチェのもとで円頂(具足戒)を授かり、上師の導きのもとで複数回にわたる長期独居の閉関修行を行いました。1987年には、師であるカル・リンポチェの指示により台湾に常住し、法の弘揚と衆生利益の活動に従事することとなります。
文化芸術や人文に対する深い造詣と愛情を持ち、美のもたらす静寂と安らぎが衆生にもたらす力を感じ取り、法と芸術を融合させた多くの活動を展開。多くの人々が身心の平安と喜びに触れる機縁を開いています。