花蓮 玉里
誇張のない言葉
劉一峰神父、五十年を超える歩みが描く人道と異文化の絆
言葉――伝達を超え、文化への敬意と信頼の礎
彼が捧げるもの、それは奉仕以上の、家族のような包容
ブルターニュから玉里へ――劉一峰神父の台湾への縁
劉一峰神父は、フランス・ブルターニュ地方の小さな町、サン=ボドリオンで1941年に生まれ、敬虔なカトリックの家庭で育ちました。若き日、パリで哲学と神学を学び、アジアでの宣教を志した叔父の志を継ぐ決意を抱きました。1966年、彼は信仰を胸に船に乗り、海を越えて台湾の基隆港にたどり着きました。そのとき、彼はまだ25歳でした。
台湾に降り立ち、彼に立ちはだかった最大の壁は言葉でした。新竹で2年間中国語を学び、その後も台語、アミ族語、ブヌン族語を熱心に習得し、単に言葉を話すだけでなく、その言葉で人々の心に語りかけました。先住民族の辞書編纂や母語のミサ普及にも尽力し、人々からは「フランス人のアミ族」と親しまれました。花蓮の玉里は第二の故郷となり、台湾は彼の家となったのです。彼はよく微笑みながら語りました。「もう洋神父と呼ばないでください、私は台湾人です。」
弱き者を守る――安徳啓智センターと福祉の生態圏
1999年、劉神父は「安徳啓智センター」を引き継ぎ、障がいを持つ人々に庇護を与えるだけでなく、温かく豊かな福祉の生態圏を築いてきました。庇護工場、リサイクル場、古本屋、地域の読書空間――彼の尽力で次々と生まれました。彼は院生たちと共に手作業でリサイクル品を分解し、ほうきや工芸品を作り、古本を販売し、働くことで彼らが誇りと生計を取り戻せるよう尽くしました。手作業にこだわり、環境を守り、雇用の場を守ってきたのです。花蓮玉里の町からは、ホームレスの姿がほとんど消えました。
2019年、長年の夢であった「安徳怡峰園」を完成させました。四階建てのこの建物には、長期介護ベッドやリハビリ施設が備わり、多くの知的障がい者たちにとって安らぎの家となっています。そこは単なる施設ではなく、社会に忘れ去られた人々が再び自らを誇れる場所です。2020年、倉庫が火災で失われても彼の志は揺らぎませんでした。36時間のうちに台湾全土から支援金が集まり、彼の社会における信頼と影響力が鮮やかに示されました。
生涯を捧げて――後山の父の愛と果たせぬ夢
玉里で人々は、彼を親しみを込めて「後山の父」と呼びます。原住民、ホームレス、アルコール依存者、精神疾患を持つ人、出所者――助けを必要とする人がいれば、彼はいつもその扉を開き、社会の片隅に置かれた魂をその手で包みます。彼にとってすべての人は神の子であり、愛され、尊ばれるべき存在なのです。かつては故郷ブルターニュのフォークダンス団を台湾に招き、玉里と故郷の姉妹都市の絆を願い、文化交流の花を咲かせようとしました。
理想を語ることなく、その歩みは人道の詩を紡いできました。総統文化賞、景星勲章、医療奉献賞、愛心賞……その栄誉に彼は執着しません。「私は、ただやるべきことをしているだけです。」と語ります。八十を過ぎた今も、彼は夢の続きを追い求め、更生者の宿舎やホームレスのための農場づくりに奔走しています。玉里が新たな出発の地となることを願って。
台湾には、海を越えてきた父がいます。彼は静かに後山を見守り、人間の最も小さく、最も大切な希望を守り続けています。