2015 涙光に照らされて ターラ菩薩の劇場 × 台北市政府親子劇場アジア・ボカ・台湾
それは、ただの演出ではなかった。 舞、絵、音、詠唱……そのすべてが優しく絡み合い、まるで遠い記憶の中からふと立ち上がる祈りのように展開されていく。
これは一つの劇ではなく、「法会」を劇場というかたちで顕したもの。 空の響き、静の美しさ、そして言葉にならない余韻が、観る者の心奥深くに静かに染みわたる。
心が震えるのは、物語のためではない。 心と心が出会い、魂が静かに共鳴するその一瞬のためである。 それは言葉にできず、ただ胸の奥で、そっと光を放ち続ける。
皆さま、本日は《涙光に照らされて――ターラ菩薩の劇場》にお越しいただき、誠にありがとうございます。
本日のこの舞台は、私たちの深い感謝と祈願の心から生まれたものです。 それは、敬愛する恩師、ボカ・リンポチェのお力とご加護によって実現しました。
ボカ・リンポチェは、チベット仏教における最も尊敬される大禅師の一人であり、生涯を通じて、すべての人が禅修を通して真の静寂と幸福を見出せるように導いてくださいました。 また、私たちに常に教えてくださったのは、「自らの修行」に留まらず、「他者を利益する心」、すなわち菩提心を育むこと。 それは、観音菩薩が衆生の苦しみを見て流した慈悲の涙がターラとなって顕れたように、私たちもまた、慈悲の行願者となるべきだと。
昨年(2014年)は、ボカ・リンポチェのご入寂十周年にあたり、《涙光》という作品を上演し、恩師への感謝と追悼の想いを捧げました。 今年は、その流れを受けて《涙光に照らされて》を新たに創作し、ターラの慈悲と智慧を、芸術という形で表現いたします。
特に喜ばしいことに、今年初頭、ボカ・リンポチェの転生が大宝法王により正式に認定され、現在九歳の小リンポチェはインドのシッキムにて生を受け、すでに寺院に戻り、今世の教育と修行を始められています。
そして今宵、この特別な舞台に、ボカ・リンポチェの心子であり、カギュ派の高僧である大堪布ロドロ・ドンギュ・リンポチェが直々にお越しくださり、ターラの精神を私たちの前に生きたかたちで示してくださいます。
どうか皆さま、この法と芸の交差する舞台を観じながら、観音菩薩の涙の光の中に—— 私たち一人ひとりの心の奥にある、本来の静けさ、喜び、そして自由を、静かに照らし出していただけますように。
涙の海(るいのうみ)
二千五百年前、仏陀は初めて法輪を転じ、 「苦の聖諦」を説いた。 生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと。 愛する者との別れ、憎しみとの再会、求めても得られぬこと、 そして五蘊の猛火に焼かれる苦しみ。
この無窮の輪廻において、 果たしてどちらが多いのか―― 四つの大海に満ちる水か、 それとも、衆生が流してきた涙の量か?
仏陀は問うた。 答えを求めるためではなく、 私たちを目覚めさせるために。
見ようとしなかった「苦」へ、 聞こうとしなかった「泣き声」へ、 そして、いまだ乾かぬ心の奥の一滴の涙へ、 私たち自身が照らし返されるために。
母のように(如母)
雨安居の時、仏陀は林に住まう比丘たちのために《慈経(メッター・スッタ)》を説かれた。 その教えは、高尚な理論ではなく、命の根源にある最も深い感情――母なる慈しみへの回帰であった。
「たった一人の愛子のためなら、命さえ惜しまぬ母のように」 仏陀は言う。 そのような無条件の慈しみを、すべての命に向けて放ちなさいと。
それは優しさでありながら、揺るがぬ決意でもある。 その慈心が一人の中に育まれれば、 その光は、上には天界へ、下には地の底へ、そして十方世界に満ち満ちる。
何ものもそれを妨げることはできず、何ものもそれに勝ることはない。 母のような心が、この宇宙を守る静かな力となる。
涙を垂らす(垂涙)
無明と貪愛に突き動かされ、 この世界の衆生は苦しみの海を果てしなく彷徨っている。
その時、観音菩薩は補陀洛伽山の頂に立ち、 世界を遥かに見渡し、すべての苦悩と助けを求める声に耳を傾けた。 そして、その悲しみに満ちた響きに心を打たれ、 二筋の涙が菩薩の両眼からそっとこぼれ落ちた。
右の涙は、速やかな慈悲の現れとして緑ターラとなり、 左の涙は、静けさと智慧の象徴として白ターラとなって現れた。
――「涙光、きらめきて、人間界を照らす。」
ターラは祈られる存在であると同時に、 私たちがどう生きるか、どう修行するかを示す導きでもある。 慈悲を歩み、智慧を選ぶこと。 それは、ひとしずくの涙が語る、 目覚めへのはじまり。
慈しみによる渡し
速疾にして勇猛なるターラよ、 その眼は一瞬の電光のように世界を照らす。 三界の守護者・観音の化身にして、 涙の海に咲いた蓮華より生まれし存在。
右眼の涙は風のごとく速き緑ターラとなり、 誓願あれば即座に応じ、 左眼の涙は月のごとく静けき白ターラとなり、 智慧をもって導く。
この二尊のターラは菩薩の慈悲の心を受け継ぎ、 衆生の一念の苦しみに、 稲妻のような速さで応現し、救済を施す。 誰一人として取り残さぬように。
慈悲の心を育む
「『度母の劇場』をご覧いただいた多くの皆さまに、まず心からのご挨拶を申し上げます。タシデレック──吉祥が皆さまにありますように。このような舞台芸術は、慈悲の行いを具現化したものなのです。」
「広く見渡せば、人間を含むすべての命は共通の願いを抱いています──それは、苦しみから解放され、真の幸せを得たいという願いです。しかし多くの存在は、苦を離れようとしながらも、知らず知らずに苦の原因を作り、楽を求めながらも、どこに楽があるかを知らずに彷徨っているのです。このように、私たちの想いと行いはしばしば逆行し、それが輪廻の苦しみを深めているのです。」
「その中で、観音菩薩こそが究極の慈悲の顕れです。菩薩は衆生の苦しみを見て、深く悲しみ、涙を流しました。その右目の涙から緑ターラが、左目の涙から白ターラが現れました。二尊のターラはこう誓いました:『菩薩よ、あなたが常に行ってきたように、私たちもまた衆生を救うために尽くしましょう。』」
「究極的には、観音菩薩も、緑ターラも、白ターラも、本質は一つ──それはこの上なく清らかな慈悲の心です。今日の演出を通して、観音が涙を流した理由や、ターラたちの起源と誓願を知ることができました。」
「けれども、最も大切なのはこう気づくことです──私たち自身の心の奥にも、慈悲の種は宿っているということ。その種はまだ眠っているかもしれませんが、確かに存在しています。今日の観劇をきっかけに、私たちもまた心に願いを抱きましょう。観音菩薩のように、ターラのように、すべての命を救い、慈悲の心を育んでいこう──と。」
変わらぬ幸せ
「すべての苦しみの原因は何でしょうか? それは、自分中心の『我執』にしがみつく心です。 では、すべての幸せの源は何でしょうか? それは、他者を思いやる心から生まれます。」
「今の時代、多くの人々は自分ばかりを考えています。 『私はどうだろう』『私のことは…』と絶えず思い巡らせ、 他者への関心は、かすかなささやきのように消えつつあります。」
「本当に幸せになりたいなら、その『私』への執着を少しずつ手放してみてください。 心を広げ、自分ばかりでなく、思いやりをもって『利他』を意識すること。 いつも『他のために、他のために』と願いながら生きてみるのです。」
「そうすれば、徐々に苦しみは減っていき、 変わらぬ、深く、澄んだ、安らぎに満ちた喜びが、 あなたの心の奥に静かに灯るようになるでしょう。」
「輪廻の世界で、無数の命は自我の習慣に縛られてきました。 だからこそ、終わりのない苦しみの中を漂っているのです。」
「しかし、偉大なる菩薩たちは違います。 彼らはただ一つの修行を重ねてきました── それは『我愛・我執』を断ち、絶えず『利他』を実践することです。」
「そうして彼らは煩悩と業力の牢獄から解き放たれ、 完全な慈悲の境地に至り、 この道をすべての衆生に教えてくださっています。 私たちもまた、その道を歩み、自由の光を目指すことができるのです。」
毎日の慈悲の修行
今を見つめましょう。 私たちは21世紀に生き、すべてが速く、忙しく、心は散漫です。 自我執着をすぐに断ち切り、完全なる利他の心を生じるのは、たやすいことではありません。 しかし、方法はあります。しかも、とても簡単な方法です。
毎朝、目を開いた瞬間に、そっと願いを立ててください: 「今日一日、私の身体・言葉・心が、すべての存在のために役立ちますように。 今日一日、誰も傷つけませんように。」
この短い願いは、一分もかかりません。 けれどもその功徳は、無限の広がりを持っています。 朝の光のように、心に静かに灯をともします。
そして日常が始まったら、朝の願いを思い出しながら過ごしてください。 「今、私は利他の行いをしているだろうか?それとも誰かを傷つけていないだろうか?」 心を見つめ、行為を見つめるのです。
これが第一の修行──利他の心、覚知、正念。
次に、心をもっと広げてください。 苦しむ人々や、無意識に悪因を積んでいる人々を見つめましょう。
そして再び願いを立てます: 「もし私が彼らの苦しみを取り除く手助けができるなら、どんなに素晴らしいことか。 もし彼らが苦しみの原因を作らないよう導けたら、どんなにありがたいことか。」
また、善行を行い、幸せを享受している人々に出会ったら、 心の底から祝福してください: 「どうかその善き行いが続きますように。 どうかその幸せがすべての方向に広がりますように。 すべての命が善の種をまき、真の幸福を得ますように。」
慈悲の禅定
「すべての衆生が苦しみから解放され、真の幸せを得られますように」 この願いこそ、慈しみと悲しみの真の現れです。 心にこのような純粋で強い想いが芽生えるとき、 心は自然と静まり、風もなく、波も立たぬ湖のようになります。 この想いに集中できれば、それは尊き慈悲の禅定。 たとえ短いひとときであっても、計り知れない利益をもたらします。 それは、心に穏やかさと喜びを与え、 いつでも他者のために行動できる準備となります。
ここで、皆さまと分かち合いたい、 とても簡単で深遠な修行法があります。 毎朝、目を開けたその瞬間に、心でこう願ってください: 「今日一日、私の身・口・意がすべての生命に利益をもたらしますように。 すべての衆生が苦しみの因を離れ、幸せの因に出会えますように。」
この修行は、仏教徒である必要はありません。 あなたの信仰をそのままに、 どの宗教であれ、この修行は行えます。 なぜなら、すべての生命の中に、慈悲の種はすでに宿っているのです。
では、今ここで共に、慈悲の禅定を実践してみましょう…… かつて釈迦牟尼仏も、このように慈悲の瞑想に入られ、 やがて悟りを成就されました。 私たちは今、そのお弟子のような存在です。 どうかこの瞬間に、心の奥の慈悲の種が芽吹き、 育まれ、成熟していきますように。 そして、速やかに、多くの命を救う力となりますように。
ありがとうございました。皆さまの心に安らぎと光が満ちますように。
古巴利文中譯禪修誦句
書道/奚淞(けいしょう)
願わくは、私が苦しみを離れ、平安と幸せに満ちますように。
願わくは、あなたが苦しみを離れ、平安と幸せに包まれますように。
すべての存在に対して願います——
か弱くとも強くとも、姿が小さくとも中くらいでも大きくても、
目に見えるものも見えぬものも、
近くに住む者も遠くに住む者も、
すでに生まれた者も、これから生まれる者も——
どうか皆が苦しみから離れ、
平和と幸せを得られますように。